公開: 2024年4月6日
更新: 2024年8月8日
現在、アメリカ合衆国は、個々の国民の自由意思を尊重し、国家の介入を最小限にするべきであると考える人々の国です。これは、政府の権限を最小にして、個人間の自由な競争を許し、その結果については、個人の自己責任であるとする考えが中心となっている社会です。国民に納税の義務は課せられていますが、その税額は、個々の国民の自己申告に基づきます。トランプ元大統領が、ほとんど税金を納付していなかったことは、良く知られていますが、これは、トランプ氏の所得申告が、非常に低かった結果です。この件については、歳入庁との間で、裁判が進行中です。
北欧の福祉国家として有名なスウェーデンでは、アメリカ合衆国とは反対に、所得の約50パーセントに所得税を課しています。このため、国民の多くは、特に富裕層の人々は、給与所得を低く抑えるような努力をします。このような国民の税負担を重くすることによって、国民への福祉サービスへの支出を増加させられるようにしています。
米国社会では、高収入の人々が、あまり税負担をしないでも、収入のほとんどを個人の収入として消費に回すことができます。しかし、それでは、子供たちの世代のために質の良い教育を提供することはできません。このため、地域別に教育税を決め、徴収します。裕福な家庭が多い地域では、高い教育税を課し、子供たちの教育に多くの予算を投入することができるからです。
また、国家による福祉サービスの提供が少ない米国の社会では、裕福な個人による寄付行為による公的団体・組織等への財政援助が一般化しています。教育機器の購入などでは、個人の寄付による機器購入費の支援などが有効に機能しています。また、家庭が経済的に崩壊した場合、キリスト教の精神に基づいて、その家庭の子供たちを、知り合いの隣人や友人の家庭が自発的に引き取り、自分たちの子供のように養育する例も珍らしくありません.米国の社会では、豊かな人々が、貧しい人々を援助することは、美徳とされているのです。
このような、中世のヨーロッパ社会から続いている共助の伝統が残っている米国社会では、国家の福祉政策よりも、個人の自由意思による寄付行為や慈善活動によって、健全な社会の存続が守られている面もあります。これは、建国以来、プロテスタント的な倫理観が、社会に根付いていて、その精神が息づいているからでしょう。しかし、そのような倫理観は、時代とともに、少しずつ薄れてゆくと予想されます。
将来、米国社会全体の経済力が低下すると、制度的な裏付けのない、そのようなプロテスタント的な倫理観は、社会全体を見れば、薄れてゆき、今までのような互助・共助の精神は、人々の心から消えてゆく可能性が高いと想像されます。アメリカ合衆国の経済成長が止まった時、短期的な視野に基づいた利潤中心主義の新自由主義経済は、単なる弱肉強食の競争社会に変わる可能性があるでしょう。それは、過去の政治学者が警告したように、現在のような活力に満ちた米国社会ではなく、強欲資本主義に支配され、衰退する社会でしょう。